南の風10m

自分が好きになった本を、誰かに伝えたい。そして、好きであった記録を残したい。そんな思いで、ブログを作ってみました。

以心伝心

男子三日会わざれば、というわけではありませんが、別の本について、ふと思ったことなどを。
私、すぐ気分が変わるものでして。
てへ。

 

以前から、以心伝心という言葉が気になってます。
手元の辞書では、言葉によらず、お互いの心から心に伝えること、とあります。
恐らく一般的にはこういう理解でしょうし、私もそう理解していましたが、先日、こんな解釈を見つけました。
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原文「以心伝心」は、自分の心に自分の心で自分の心を伝える意で、ひっきょう、心は他から伝えるのではないことを示す。
柳田聖山・編『世界の名著 続3 禅語録』(中央公論社、1974年)、p.108(『六祖壇経』への註)

 

 


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『六祖壇経』、そもそも異本が多すぎて本文自体が定まりかねる書とのことであり、この解釈も、本書が採用した本文に寄るものではあると思います
ただ、はっとさせられました。


つまり、「心」から「心」へ、の二つの心とは、一体何なのか、ということ。

この心、普通は、自分の心から相手の心へ、あるいは、相手の心から自分の心へ、と理解されていると思いますし、私もそうでした。
しかし、この語釈に触発されて考えてみると・・・そもそも、自分の心から相手の心へ、あるいは、相手の心から自分の心へ、なんてものが成り立つのでしょうか。
いや、確かに、思いを伝えることは、できる。
できるけれど、伝えられた思いが「理解」してもらえることと、「納得」してもらえること、「腑に落ち」てもらえることは、違うのではないか。
そして、何かを自分の中に落とし込む、そのために大切なのは、いや唯一できることは、相手から納得のいくように伝えてもらうことではなくて、自分の理解を自分の心に伝えて落とし込むこと、それなんじゃないかと。

 

そもそものそもそも、仏教の祖である釈迦からして、誰かの心から釈迦の心に、何かを伝えられたということ、ということがあったのだろうか。
釈迦の悟りは、誰かから伝えられたものではない、自悟ともいうべきものでしょう。
そして、釈迦は教えをといたけれども、悟りの内容は、伝えていません。
所詮、釈迦の教えを、仏の教えを信じるとは、釈迦が悟ったという一点を信じて、あくまでも自悟するしかない。
この語釈は、そんな厳しさを表現しているのではないかと思います。

 

・・・ただ、だからと言って、自分の心を相手の心に伝えることを放棄していいってことでは、ないんだろうなあ。
だから私は、以心伝心を、「心は他から伝えるのではない」とも理解しつつ、「自分の心を、相手の心に伝えること」とも理解したい。
お釈迦さんだって、悟ったあと、死ぬまで人に伝え続けた。
私も、大概の人もそんなすごい人じゃあないけれど、伝えようと思い、伝えようと頑張れるから、人は人とつながって生きていけるんだと思う。
たとえ、相手が理解し納得してくれたことが、自分の伝えたい心と違ったとしても(そして、それは良くあることだと思う)、伝えたいと思い、伝えられたと思う、その心は、とても、大切なもののはず。
そんな、私の心。