南の風10m

自分が好きになった本を、誰かに伝えたい。そして、好きであった記録を残したい。そんな思いで、ブログを作ってみました。

笹沢左保『木枯し紋次郎』

ことのついでというわけではないけれど、この物語についても、書きたい。
中村敦夫主演の時代劇が有名ですが、原作も正編続編合わせて(たしか)20巻前後にわたり書き続けられ、長く読まれてきた名作です。
この本の主人公である紋次郎、無宿、つまり故郷の戸籍から抜かれ、賭博を生業として諸国を旅する渡世人です。
根無し草で、正業もない。
しかも、厄介なことに、なまじっか腕っぷしが立つのと、それがために名前が売れてしまっている故、行く先行く先でトラブルに巻き込まれ(あるいは自分から飛び込み)の繰り返し。
情無しではないし、ふと人に関わり、そのたんびに、人に裏切られる。
なかには、彼のことを認め、その到来を待ち望む人もいるが、そこで尻を温めることもできない。
それは彼が渡世人の故でもあるし、彼がそこに居るがゆえに無用なトラブルが襲ってくる故でもある。
作中、紋次郎が人間不信を深めていくことはあれ、生き方や心情に温かみをもたらしていくような出来ごと、転換はない。
下り坂、あるいはどん底を行く人生。
しかも、続編に行くと、老いによる体の衰えという恐ろしい現実まで襲ってくる。
いわば、20余巻にわたりその無間地獄を見せられるわけで、むしょーにやりきれない。
とはいえ、それでも長い長い小説を飽きずに読ませてくれたのは、そのやるせなさが、どこかリアルで、見たくないようで見たい、そんな世の裏を覗き見るどきどき感があったからでしょうか。
ライトなのも好きですが、こういうのもまた、時折むしょうに読みたくなるんですよねえ。

 

基本的には短編で、面白いエピソードもいろいろあるのですが、まず一つ挙げるならば、ここはあえて長編を。

賭場というものがない奥州(この設定が時代考証的に正しいのかはわかりませんが)に漂着した紋次郎、渡世のしがらみを切り払いつつ南へ南へと向かう、スピード感のある1冊です。

 

 

周藤蓮『賭博師は祈らない』①~⑤、電撃文庫、KADOKAWA、2017-2019

作者さんの口ぶりをまねれば、本の感想には、「最初に読んだ時の感想」と、「読み込んだ時の感想」があると思います。
最初に読んだ感想は、食べ物に例えれば、口に入れた瞬間の強烈な印象と、口の中に微かに残った後味、といったところでしょうか。
それはきっと、その時にしか感じられえないもので、はかなくて、実はとっても大切なもんじゃないかと思います。

 

というわけで、このシリーズを一読した感想なのですが、どこまでも抜けていくような青空の爽やかさ、といった感じです。

 

物語、主人公は賭博師で、そのの主戦場は賭場で、そこで戦い、勝ち(時に負けますが)、生きています。
ときは18世紀、資本主義黎明期のイギリスはロンドンが舞台、階級社会の吹き溜まり(よりはちょっと上あたり?)の爛熟した雰囲気がむんむんに漂っています。
賭博も犯罪も今と比べれば身近な世界、己れの腕一本で渡れる世間は、足を踏み外せば落ちていくあるいは命を落としていく、張り詰めた緊張感があります。
主人公も、特に最初のころは、結構ニヒルで、賭博を生業とする者の、どこか醒めた心性がとても強かったですしね。
1巻で描かれたいかさま師の下りなどは、ダーティーで良かったです。

 

けれど、シリーズを通して描かれていくのは、主人公やヒロイン(彼にひょんなことから買われた奴隷の少女)が、そんな状況からずるずる滑り落ちていく姿ではなく、むしろ己れに課された枷を、取り巻く現実を見つめ、それに向き合い、未来を切り開いていく姿でした。
その過程で、主人公とヒロインは、お互いの惹かれあう心と、それぞれの意志と、主人と奴隷という、心ならずとも結んでしまった関係に向き合い、葛藤していく。
あー、もどかしくていじらしくて、とても胸きゅんでしたよ。
なんというか、主要な登場人物が、みんな、誠実で(堅物って意味じゃあないですよ)、すごく温かみがあるんですよね。
(これは勝手読みですが、作者さん、結構まじめな人なんじゃないかなあと。)
だから、彼らが踏み出し、今の自分を未来に賭けていく姿と、そのラストは、すごく爽やかなものだったのですよ。

 

いやあ、レーベルがレーベルですし、よもや『木枯し紋次郎』のように人間不信スパイラルで落ちてゆく小説ではないよなとはもちろん思っていましたが、久々に読んだライトノベル、読み終わってみればとても良い気分になれました。
あ、でも一つ要望を言わせてもらえれば



幸せな後日談とか、何かの形でよみたいなぁ。
すっきり終わったこのシリーズに蛇足なのかもしれませんが、あまーいのが好きな私としては。
だって望んだっていいじゃないですか、ライトで(軽妙で)、ライトな(明るい)、ライトノベルなんですから。
と、なんというか、公開ファンレターみたいになってしまいましたなぁ。
でも、それくらい好きでなければ、他の本を読む時間を削って文章書こうとは思えないからね、良いのです。

 

賭博師は祈らない (電撃文庫)

賭博師は祈らない (電撃文庫)

 

 

 

以心伝心

男子三日会わざれば、というわけではありませんが、別の本について、ふと思ったことなどを。
私、すぐ気分が変わるものでして。
てへ。

 

以前から、以心伝心という言葉が気になってます。
手元の辞書では、言葉によらず、お互いの心から心に伝えること、とあります。
恐らく一般的にはこういう理解でしょうし、私もそう理解していましたが、先日、こんな解釈を見つけました。
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原文「以心伝心」は、自分の心に自分の心で自分の心を伝える意で、ひっきょう、心は他から伝えるのではないことを示す。
柳田聖山・編『世界の名著 続3 禅語録』(中央公論社、1974年)、p.108(『六祖壇経』への註)

 

 


~~~~~
『六祖壇経』、そもそも異本が多すぎて本文自体が定まりかねる書とのことであり、この解釈も、本書が採用した本文に寄るものではあると思います
ただ、はっとさせられました。


つまり、「心」から「心」へ、の二つの心とは、一体何なのか、ということ。

この心、普通は、自分の心から相手の心へ、あるいは、相手の心から自分の心へ、と理解されていると思いますし、私もそうでした。
しかし、この語釈に触発されて考えてみると・・・そもそも、自分の心から相手の心へ、あるいは、相手の心から自分の心へ、なんてものが成り立つのでしょうか。
いや、確かに、思いを伝えることは、できる。
できるけれど、伝えられた思いが「理解」してもらえることと、「納得」してもらえること、「腑に落ち」てもらえることは、違うのではないか。
そして、何かを自分の中に落とし込む、そのために大切なのは、いや唯一できることは、相手から納得のいくように伝えてもらうことではなくて、自分の理解を自分の心に伝えて落とし込むこと、それなんじゃないかと。

 

そもそものそもそも、仏教の祖である釈迦からして、誰かの心から釈迦の心に、何かを伝えられたということ、ということがあったのだろうか。
釈迦の悟りは、誰かから伝えられたものではない、自悟ともいうべきものでしょう。
そして、釈迦は教えをといたけれども、悟りの内容は、伝えていません。
所詮、釈迦の教えを、仏の教えを信じるとは、釈迦が悟ったという一点を信じて、あくまでも自悟するしかない。
この語釈は、そんな厳しさを表現しているのではないかと思います。

 

・・・ただ、だからと言って、自分の心を相手の心に伝えることを放棄していいってことでは、ないんだろうなあ。
だから私は、以心伝心を、「心は他から伝えるのではない」とも理解しつつ、「自分の心を、相手の心に伝えること」とも理解したい。
お釈迦さんだって、悟ったあと、死ぬまで人に伝え続けた。
私も、大概の人もそんなすごい人じゃあないけれど、伝えようと思い、伝えようと頑張れるから、人は人とつながって生きていけるんだと思う。
たとえ、相手が理解し納得してくれたことが、自分の伝えたい心と違ったとしても(そして、それは良くあることだと思う)、伝えたいと思い、伝えられたと思う、その心は、とても、大切なもののはず。
そんな、私の心。

評で本を手にとる

ここ数年、思い返すと、固めの本ばかりを読んでいたような気がします。

それには、またいろいろ理由もあるのですが、最近、思考が、志向がちょっと変わりました。

純粋に、肩の力を抜いて、読む事を楽しみたい、心を動かされたい。

たぶん、コロナの影響でしょうねえ。

 

この病禍で、私が天に召されるということはおそらくはないでしょう。

そう信じてます。

嘘です、信じ切れていないので、運動をしたり、ストレス低減に努めたりと、節制に努めています。

そして、たとえ自分に明日が来なかったとしても悔いのないよう、したい事を(日常と折り合いをつけつつ)するようにしています。

ふっふっふ、まあ、いわばコロナをダシにして人生を楽しんでいるわけですね、私。

 

そんな流れの中で、久しく読んでいなかった、ライトノベルをまた読んでみようと思い立ちました。

ライトで(軽妙で)、ライトな(明るい)、ノベル!

なんと甘美な響きでしょう。

小学校~大学生の辺りまでは、日常とともにあったライトノベルと、マンガ。

でも、いざ再び手にとろうと思ったら、なんということでしょう、レーベルも刊行数も、ものすごいことになっていてあらびっくり。

 そのうえ、現在の生活環境では、本屋であれこれ手にとって内容を確認し、というわけにもいきません。

かといって、気になるものすべてを買い漁れるわけでなし。

さりとて、犬も歩けば棒に当たると闇雲に買いあさって、気に入る作品に行き当たる僥倖のを待つのも、手間。

となれば、取れる手段は、恐らく二つ。

以前読んでいた作品を再度読む事と、確かな賞を獲った作品に手を出してみること。

前者には、竹宮ゆゆことらドラ』(電撃文庫メディアワークス)を選びました。

では後者は?

 

ここで話は変わるのですが、紹介文、というのはとても大切なもので、時にその一文が、紹介された本を手にとるかとらないかを決めることがあります。

私にとって、このゴールデンウィークに読みふけった本を手にとるきっかけになったのが、これ。

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佐藤辰男カドカワ株式会社 代表取締役会長)
私の一押し。賭博小説としても一級品。18世紀のロンドンが舞台。清教徒革命の時代だった前世紀から一転して博打と麻薬の時代になったという時代の空気がうまく描かれている。奴隷や拳闘、カフェなどの知見が楽しい。が、「麻雀放浪記」のファンからすれば、余計な描写はそぎ落として、全編博打シーンでつなげてほしかった。

dengekitaisho.jp


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電撃大賞受賞作品の紹介と、選考委員の短評を載せたページの、短評の一つです。

なんというか、突っ込みどころがいっぱいでまことに楽しい。

いやいや、「全編博打シーン」じゃあ、全然ライトじゃないですよ、ヘビーヘビーでイリーガル。

麻雀放浪記、私も好きなんですが(真田広之鹿賀丈史の映画も味が有りましたねえ)、そういえば、確か原作だと、ニ巻で主人公ポン中になっちゃってましたっけ。

そいつぁちょっと中高生にはねえ。

まあ、そういう私が麻雀放浪記を読んだのは高校の頃だったと思いますが。

それはおいといて、おそらくは評者の方、きっとこの作品がすとんと腑に落ちたというか、感覚で気に入ったんだろうな、という雰囲気を感じます。

文頭に「私の一押し。」良いですねえ、とても端的です。

そして続けて「賭博小説『としても』一級品」と。

「賭博小説」ではない何かの小説としても、一級品ということでしょうか。

そのなにかとは、きっと、そのあとに来ている「時代の空気」や「知見」のことではないんでしょうね。

それは、語られない。 

選者の方の一筋縄ではいかない性格を匂わせる短評そのものがとても楽しくて、そんな評者にお小遣いを張って(なんせ賭博小説ですからねえ)、ためらいなく全巻購入したのが、周藤蓮『賭博師は祈らない』①~⑤(電撃文庫KADOKAWA、2017-2019)です。

本は感覚で読むもんですが、選ぶのは勘ですからね。 

 

そんなこんなで連休前におうちに届き、ゴールデンウィークを彩り、楽しませてくれた作品です。

せっかくなので、本の紹介一投目は、これにしたい。

そして、どうせ書くなら、自分が短評でこの作品を手にとったように、誰かがまた手にとろうと思えるような文章を、ちゃんと書いてみたい。

そう思えたのだから、がんばって書くどー!

(とりあえず、今日は寝ますがZzz)

 

賭博師は祈らない (電撃文庫)

賭博師は祈らない (電撃文庫)

 

 

 

思いを語ってみたいということ

本を読み、心を動かされたとき、その感動を言葉にしてみたいと思う。その感動は、きっと、時とともに薄れてしまうものだから。薄らいだ記憶を呼び起こして、自分が何かを好きだった、その思いを自分に感じさせてくれる何か、好きだった思いを、記録に残したいと思う。そして、それを、誰かに、伝えられたらと。ただ、自分の身近に、伝えられる相手が、伝われる相手がいるとは、限らない。だから、せめて、ネットの海にその言葉を漂わせてみようと思う。いつか誰かに届いたら。そのために、ブログを作ってみました。